今、このページを開いている方は、もしかすると、その渦中にいるのかもしれません。
検索して、ここにたどり着いた。けれど本当に知りたい答えは、どこにも書いていない。私も、同じことをしていました。
いちばん最初に来た不安
23週、600g台。双子が生まれたとき、最初に頭を占めたのは、ただ「助かるのか」ということでした。
うれしさよりも先に、それが来ました。おめでとう、と言われても、うまく受け取れませんでした。手放しで喜ぶことが、どこか怖かったのだと思います。
「72時間が山です」と言われました。その言葉の意味を、正確には分かっていませんでした。家に帰って調べても、出てくるのは数字や確率ばかりで、自分の子どものことは、何ひとつ書いていませんでした。
その不安の中で、起きていたこと
生まれた直後、二人はそれぞれ別の病院へ運ばれていきました。小さな体は、透明な膜のようなものに包まれていました。会いに行っても、保育器の外から見ていることしか、できませんでした。
面会に行くたびに、何かを告げられました。頭のこと、呼吸のこと、血圧のこと。説明を聞いている間は、表情を変えないようにしていました。けれど病院を出て、ひとりになると、足が止まることがありました。
容体は、一定ではありませんでした。良くなったと聞いて少し息をつくと、次の面会で別の説明がある。下の子の心臓近くの血管のことで、処置が必要になった時期もありました。そのたびに、また身構えました。次に電話が鳴ったら、何を言われるんだろう、と。
妻からの連絡を待つ時間が、いちばん長く感じました。何もなければ、それでいい。悪い知らせがない、というだけのことが、ありがたかった。
ある夜の日記には、「ここまで生きてくれただけでも、奇跡なのかもしれない」と書いてありました。期待しすぎないように、自分へ言い聞かせる言葉だったのだと思います。
この時期の自分は、何かをしてあげられたわけではありません。ただ、毎日通って、見て、また帰る。それを続けていただけでした。
それでも
「助かるのか」という問いに、その時の自分は答えを持っていませんでした。誰も、約束はしてくれませんでした。
その先がどうなるのかは、人によって違います。私たちの場合は――二人とも、生きて、家に帰ってきました。
今、その子たちは家にいて、騒がしい毎日を過ごしています。あの頃、保育器の外から見ていることしかできなかった子たちが、です。
あの日々を、軽かったとは言いません。けれど、あの時間の先に、こういう日常があったということは、書いておきたいと思いました。
この不安の中にいた日々の記録
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妻からの電話、自転車で10分の道
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不安で眠れなかった夜、初めて手紙を書いた朝
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出産2日後のレベル2、3日後のレベル4
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「お話があります」と言われない日が、こんなにありがたいとは
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名前を決めた日
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初めて綿棒で母乳をあげた
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母乳が足りなくなった日、ミルクドナーという制度を知った
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動脈管が開いた弟、手術かもしれない
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妻への伝え方を間違えた日
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「またくるねー」と弟が目を開けた
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目が覚めたら、痛みだけがあった
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子どものことは、聞いて知るしかなかった
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自分だけ退院した日、家には何もなかった
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搾乳生活、自分にできる唯一のこと
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退院しても、体はまだ戻っていなかった
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あんな小さな体にメスが入るのかと思った
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「明日話があるから午後休める?」と妻からLINEが来た日
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順調だと聞いた翌日、兄の容態が急変した
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収まったと思ったら、今度は弟だった
この続きは、時系列で順次公開していきます。
あわせて
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