今、このページを開いている方は、もしかすると、その渦中にいるのかもしれません。
子どものことで頭がいっぱいで、いちばん近いはずの相手と、うまく言葉が通じない。支え合いたいはずなのに、些細なことでぶつかってしまう。そんな時期かもしれません。私も、そうでした。
二人とも、限界だった
あの頃、自分たちの意識の中心には、いつも子どもたちのことがありました。目が覚めてから眠るまで、考えているのはそのことばかりで、お互いに目を向ける余裕が、そこに残っていませんでした。
体のほうも、限界に近かったのだと思います。妻は手術明けで、まだ体が戻っていない中、母乳を搾るために細切れにしか眠れていませんでした。自分は仕事と病院と家を往復して、病院では不安になる話ばかり聞いていました。
子育てと、病院通いと、ただ毎日を回していくこと。その重さで、二人とも、心も体もすり減っていました。けれど当時は、自分が限界だということにも、相手が限界だということにも、目を向けるだけの余裕がありませんでした。
ぶつかり合うことが、増えていった
家の中は、些細なことで空気が悪くなりがちでした。
病院で聞いた話を妻に伝えるのは、たいてい自分の役目でした。妻は面会に行けない時期が続いていて、子どもの様子を知る手立ては、自分の口から伝わるものが、ほとんどだったからです。
その話は、いい知らせばかりではありませんでした。重い説明を聞かされた帰り道、これを家でどう伝えればいいのか、足取りが重くなる日がありました。
ある日、その伝え方を、間違えました。
抱えていたものを、半ば相手にぶつけるような形になってしまった。何が始まりだったかは、もう覚えていません。ただ、相手をひどく傷つけてしまったこと、その晩のことだけは、今も忘れられません。
それまで夫婦は、別々の部屋で寝ていました。仕事のある自分の睡眠を、妻が気遣ってくれていたからです。その晩から、同じ部屋で寝るようにしました。隣に誰かがいる、というだけで、少しだけ救われる部分がありました。
あの頃、目を向けられなかったこと
ぶつかっていたのは、どちらかが悪かったからではありませんでした。
今になって思うのは、あの頃の自分たちは、二人とも、心も体も限界だったということです。相手を支える余裕も、自分が支えてもらう余裕も、どちらも残っていなかった。
そして当時は、その限界そのものに、目を向ける余裕すらありませんでした。ただ、目の前のことを回すだけで、精一杯だった。自分たちが追い詰められているのだということに気づいたのは、ずっと後のことでした。
私たちの場合は、そうでした。
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